Coffee Break Essay



 『小野田さんの背筋』
    旧帝国陸軍少尉 小野田寛郎氏を偲ぶ


「オノダさーん、オノダさーん。あれ、どこ行っちゃったのかしら……オノダさーん」

 女子社員の声が廊下に響く。女子社員は、ビル掃除の小野田さんを探していた。しきりに声がするので、気になって廊下に出てみると、

「あッ、コンドーさん。小野田さん見ませんでした」

 女子社員が駆け寄ってきた。

「あー、小野田さんなら、今、ブラジルじゃないの」

 と向けると、彼女はキョトンとしている。

「ルバング島の小野田さんだよ、旧日本兵の……」

「何ですかー、それ」

 何ですか、それ……に、私は狼狽した。女子社員は二十七、八歳である。小野田少尉を知らなかった。机に戻って、小野田さんがルバング島から出て来たのはいつだったか、としばらく考えて、愕然とした。三十年が過ぎていたのだ。これは平成十六年の話である。

 昭和四十九年(一九七四)、十四歳だった私は、テレビに釘づけになっていた。ビデオなどなかった当時、私はラジカセをテレビにつなぎ、その音声を録音するほど入れ込んでいた。

 飛行機のタラップに現れた小野田さんは、意外にも背広姿で、二日前にジャングルから出て来たときとは打って変わって、こざっぱりとしていた。頭と髭を剃り、ヨレヨレの軍服を着た古武士然とした風貌は、もうどこにも見当たらなかった。だが、野性味を帯びた鋭い眼光と、五十二歳とは思えぬピンと伸ばした背筋は、旧帝国陸軍兵士の生きざまそのものを現していた。「よく生きていた」というのが当時の日本人の共通の思いだった。

 羽田空港のタラップの下で出迎えの人々と挨拶を交わした小野田さんは、政府関係者に導かれ両親の前に立つ。三十年ぶりの再会である。日本中の人々が固唾を飲んで見守る中、両親の前に歩み出た小野田さんが深々と頭を下げる。そんな息子に、老齢の母親が涙ながらに声をかけた。その声をマイクが拾った。

「寛郎、母が最後にいった言葉を最後まで守ってくれて、ありがとうございました。……えらかったのう」

 出征前、母は二十二歳の息子に向かって「捕虜になるな」といいわたした。その「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」という先陣訓を息子が守り通した。そのねぎらいの言葉だった。軍人の母の言葉である。だが、「えらかったのう」は、三十年ぶりに再会した息子を労わる母親の心情の吐露であった。溢れる思いが胸に迫り、私はそれ以上画面を直視することができなかった。

 終戦を目前にした昭和十九年(一九四四)、小野田寛郎は陸軍のエリート学校、陸軍中野学校を卒業。終戦を目前にし、遊撃指揮(ゲリラ戦の実地指導)および残置諜者(敵地にて情報収集)の命令を受け、フィリピンのルバング島に潜入する。支給されたのは、二ヵ月分の食料と、わずか二六〇〇発の銃弾だけだった。敵の後方を撹乱し「死を背中にしょって生き続けろ」、死んではならないという絶対命令であった。

 潜入当初、小野田には島田伍長、小塚上等兵、赤津一等兵の三人の部下がいた。だが、終戦になっても、ジャングルにいた彼らには、任務解除の命令が届かなかった。

 終戦から四年目の昭和二十四年に、赤津一等兵が投降する。その五年後、地元の軍隊と武力衝突があり、島田伍長が戦死。

 昭和三十四年には、日本政府の旧日本兵の捜索隊に小野田の兄が加わる。本人であることを知らせるため、旧制一高の寮歌を歌ったが、潜伏する彼らを信用させることはできなかった。この時点で政府は、残りの二人は昭和二十九年の戦闘で死亡したのだろうと推測し、捜索は打ち切られた。

 そのころ小野田は、ジャングルの中から、頭上を飛ぶ米軍機を仰ぎ見ていた。マニラから朝鮮戦争やベトナム戦争に向かう機影である。小野田は、日本軍が反撃に出たための米軍の出動と考えた。いよいよアメリカは日本に追い詰められている。大東亜共栄圏が堅固なものになりつつあると確信する。小野田が「残置蝶者(ざんちちょうじゃ)」の命令を受けた際、日本軍はこの戦いを百年戦争と考えている、という訓告を受けていた。

「私は、日本は巻き返していると確信しておりました」

 と後に小野田は語っている。

 小野田は、自分らの居場所を敵に特定されないよう、三、四日ごとにジャングルの中を移動していた。あるとき小野田が「あちらへ移動する」というと、部下は「あっちは危ない」と反論した。議論の末、部下が小野田に銃口を突きつけた。とっさに「バカヤロー」といってピストルを部下に向ける。

「貴様が打つ弾は、敵に使うべき貴重な弾ではないのか」

「俺はあっちへ行く、撃ちたければ撃て。……一人で敵と戦え!」

 そういって小野田は歩き出す。部下は黙って後からついてきた。小野田は、上官と兵隊は教育が違うと考えていた。攻撃の時は率先して前に、退却の時は最後についた。自分が先頭に立って危険を背負うと、部下はついてくる。強い意志があれば恐怖心は失せる、と。

「小野田さんは、(ジャングルでの潜伏中)敵を撃ったことはありましたか」

「五十メートルまで敵を引きつけて、確実に討ち(殺し)ました」

 小野田のジャングルでの生活がいかに緊張の連続であったかは、投降した際に今日が何月何日であるかを四、五日の狂いで指摘したことにも窺える。

「簡単ですよ。毎日一日ずつ加えていけばいいんですから」

 小野田はさらりと答える。この日づけの狂いは、雨天や徹夜の戦闘が続いたことによるズレであった。

 昭和三十九年、東京オリンピックにあわせ東海道新幹線が開業し、首都高速についで東名高速が完成した。日本中がオリンピック一色に沸き返った。昭和四十五年には大阪で万博が開催され、前年にアメリカの宇宙飛行士が月から持ち帰った「月の石」が人気を呼んだ。万博は、日本の経済大国化を象徴する事業となる。日本は急激な経済成長を遂げていた。誰もが、戦争は完全に過去のものとなったという思いを抱き、平和を謳歌していた。そんな中、日本の巻き返しを確信し、戦争をし続けている日本人がいた。

「……特に辛かったのは、雨です。ジャングルの雨は、上からだけではなく、下からも吹き上げてきます。集中豪雨の続く間は、ひたすら身体を丸め体温の低下を防いで凌ぎました」

 昭和四十七年、小野田は再び地元軍と銃撃戦を交える。そこで最後の部下であった小塚上等兵を失う。

 この戦闘で、一人逃げた者がいたという目撃証言から、小野田の家族や戦友が中心になり、政府を巻き込んだ捜索活動が再開される。高齢な小野田の父親も神輿のようなものに担がれながら、捜索に加わった。だが、父親の必死の呼びかけにもかかわらず、小野田の発見には至らなかった。

 このとき、小野田はジャングルの中から捜索隊の中に兄の姿を認めている。捜索隊の言葉が口語調だったため、終戦直後米軍が行った日本兵探索と同じだと思ってしまう。米軍の謀略による日本兵確保の罠だ、と警戒したのだ。

 この小野田を帰国に導いたのは、鈴木紀夫青年だった。自称冒険家の鈴木は、ルバング島のジャングルにテントを張って、偶然にも小野田と遭遇する。一晩かけて小野田と話し合い、彼に戦争が終わったこと、現在の日本の状況を説明し帰国を促す。だが小野田は、自分は命令を受けてここに残留しているから、その命令が解除されない限り勝手に帰るわけにはいかない、と鈴木の説得を一蹴した。そこで鈴木は、小野田の上官と何とか連絡を取ってみるから、後日、もう一度会って欲しいと小野田の約束を取りつける。

 帰国した鈴木からの連絡で、小野田の元上官、谷口義美少佐が急遽ルバングに赴く。三月十日、約束の場所に現れた小野田に対し、谷口は残留命令の解除を伝える。命令書を読み上げる谷口の前に、小野田は直立不動で「執銃(たてつつ)」の姿勢をとる。ボロボロな軍服、目深に被った軍帽の破れから覗く鋭い眼光。背筋を真っ直ぐに伸ばし微動だにしないその姿勢が、小野田の戦争が終わっていないことを語っていた。映画でも芝居でもない、本物の日本兵がそこにいた。

 命令書を読み終えた谷口は、二十九年ぶりに再会した小野田に対し、長年の任務遂行の労をねぎらう。昭和四十九年三月十日、小野田の戦争は終わった。

 投降した小野田に対し、フィリピン政府は寛大な措置をとった。一切の罪を問わなかったのだ。小野田は長年にわたる潜伏生活の中で、地元軍人の殺害や生き延びるための略奪を行っていた。このときの小野田は、死を覚悟しての投降だった、と後に語る。

 祖国に戻った小野田に対し、政府は見舞金として百万円の贈呈を申し出るが、小野田は拒否する。どうしてもというので、彼はこのお金と方々から寄せられた義援金の全てを、靖国神社に寄付してしまう。天皇や首相との会見をも断り、検査入院の拘束から解かれた小野田が真っ先に向った先は、戦闘で亡くなった島田と小塚の墓であった。

 帰国の当日、小野田はNHKのインタビューに答える。数日前までジャングル生活をしていた人とは思えない、淡々とした口調だった。

――人生の最も重要な三十年間、ジャングルの中で暮らしたことをどう思いますか。

「若い、一番意気盛んな時期に、大事な仕事を全身でやれたことを、幸福に思います」

――三十年間心に思い続けてきたことは。

「任務の遂行以外ありません」

――ご両親について考えたことはかなったですか。

「出かけるとき、両親には諦めてもらっていたので、そんなことは考えませんでした」

――小塚さんの死で、山を降りる心境になったのですか。

 長いインタビューで終始淡々と語る小野田が、このとき初めて感情を顕わにした。

「それはむしろ逆さの方向です。復讐心の方が多くなります。誰が自分の目の前で……二十七年も八年も一緒にいて……《露よりもろき人の身は》というものの、倒れた時の悔しさといったらありませんよ。男の性質、本性と申しますか。そういう自然の感情からすれば、誰だって復讐心の方が多くなるんじゃないですか」

 小野田の唇が怒りに震えていた。小野田の無念が、聞くものの胸に迫った。

 小野田の帰還は、平和ボケしていた日本人に衝撃を与える。どこへ行ってもマスコミのカメラが小野田を取り囲んだ。

「帰還直後はともかく人が怖く、当時の日本には自分の居場所がなかったような気がします。三十年の空白を埋め、社会に復帰し順応するにはどうすれば良いか、虚脱状態の日々が続きました」

 靖国神社への寄付、帰国の際に「天皇陛下万歳」を叫んだこと、現地住民との銃撃戦によって、多数の住民が死傷した事実などが次第に明らかになってくると、心無いマスコミによる小野田パッシングが始まる。本当に小野田は敗戦を知らなかったのか、という非難から「軍人精神の権化」「軍国主義の亡霊」といった批判が噴出する。

「俺は任務を遂行しただけなのに……皆、笑顔で送り出したではないか」

 ささいなことで父親と口論になる。「郷に入れば郷に従え」という父に、

「自分は命が惜しくて生きてきたのではありません。誰がこんな世の中に生きたいと思うもんか」

 床の間の軍刀を抜き、割腹しようとした小野田を、弟がねじ伏せた。

 万感の思いを抱き、祖国の土を踏んだ小野田は、わずか一年でブラジルへの移住を決意する。

「ブラジル移住を表明したとき『国を挙げての救援活動でせっかくジャングルから救出されたのに、日本を捨てるとは何事か』『恩知らず』などと、非難中傷の言葉を浴びました。その中で、ある漫画家の先生が『長い年月、国に縛られた人生を費やしてきたのだから、これからは自由に、小野田さんの好きなことをやってもいいのではないか』と、私の新たな目標を応援して下さいました。あのときの言葉はとても嬉しく、今でも忘れられません」

 小野田の日本に対する深い思い、その思いを土足で踏みにじるような連中の存在、そんな小野田の板挟みの苦悩を見ていたのは、昭和五十一年に小野田と結婚した町枝夫人である。

「(小野田寛郎さんが、戦時中そのままの軍服を身につけ、厳しい表情でテレビの中にいた)その姿を見て、彼の鋭く光る目に、こんなに潔くて強い信念を持つ人がこの世に存在していたのかと感動し、私の心はその強さに引きつけられました」

 ブラジルへの移住は、友人からの借金で、ゼロからの再出発だった。ブラジルでの日々は、未開の原野を開墾する不眠不休の数年間だったと夫人は振り返る。

 ブラジル移住三十年を迎えた今年(平成十七年)、小野田は一八〇〇頭の牛を飼う牧場主となった。現在、日本とブラジルを行き来する生活をしている。

 そんな小野田が、日本の青少年の凶悪犯罪に胸を痛め、福島県に自然塾を開校した。祖国の若者のために何かしたい、そんな思いが小野田を突き動かした。

 テレビカメラは小野田の事務所の一角を映し出す。そこにはノートパソコンに向って講演の原稿を打つ小野田の姿があった。八十三歳の小野田が、パソコンに向っている。小野田の強さを見せつけられた思いがした。いかなる環境にも順応してしまう、逞(たくま)しい小野田が健在していた。

 小野田の投降は、戦争とは何か、平和とは何か。国家とは……当時中学生だった私に大きな問いを投げかけた。何故、国家は戦争をするのか、そんな疑問が、私の大学での専攻に影響を与えた。

 八十三歳の小野田に、もはや投降当時のような殺気はなかった。テレビの取材に対し、終始穏やかな口調で淡々と語っていた。だが、インタビューに応じる小野田の背筋は相変わらずピンとしており、そこに小野田の生きる姿勢を見た思いがした。小野田の座右の銘「不撓不屈(ふとうふくつ)」には、誰をも納得させる重い響きがあった。最後に、波乱に満ちた人生を問われた小野田は、笑顔を交えながらさらりと答える。

「だってしょうがないじゃないですか、戦争してたんだから」

 それは小野田の中に今もなお生き続けている日本男児の潔さ≠ナあった。小野田の背筋が、何よりもそれを語っていた。

                平成十七年八月 立秋  小 山 次 男


  追記

 平成二十四年八月加筆  平成二十六年一月再加筆

 平成二十六年一月十六日 小野田寛郎氏(九十一歳)、都内の病院で死去。