Coffee Break Essay


 『米良四郎次と屯田兵』

 

 (三)

 毎朝四時、起床ラッパが中隊本部から各戸に鳴り響いた。六時に兵員は練兵場で軍事訓練を受ける。午後の開拓事業は、一番通りから四番通りまで道路の両側に深い排水溝を掘削することから始まった。それが終了すると、今度は南北の各兵屋の境界に排水溝を掘削した。この作業は原始林の真ん中だけに大変な重労働であった。

 さらに入植一年目は、巨木が林立する原始林の伐採に明け暮れた。周囲から集められた木や熊笹やツタなどがうず高く積まれ、放たれた火は一週間以上も燃え続けた。単純で骨身に応える重労働の連続であったが、今開拓している土地が将来自分の所有地になる、という励みだけが彼らを動かしていた。

 屯田兵の日常は、四月から九月までは午前四時起床、六時から午後六時まで就業。その間一時間の昼休みだけで、就業時間は十一時間であった。十月から翌年三月までの冬期間でも九時間の就業である。こうした日課の中で練兵訓練と農地の開墾耕作が行われた。休日は雨の日だけであったが、後に一と六の日が定休となった。

 

 明治二十七年(一八九四)八月、日清戦争が勃発する。この時期、札幌周辺を警備していた第一大隊第一中隊(琴似)、第二中隊(山鼻)の屯田兵は後備役となっており、第三中隊(新琴似)、第四中隊(篠路)は予備役であった。翌年三月、臨時第七師団が新設され屯田兵に動員の命が下る。四千名の兵員が征清第一軍に編入され、四月に東京へ終結し、近衛第一連隊の兵舎で待命した。その間、毎日代々木練兵場で訓練が行われていたのだが、講和条約の締結となり、屯田部隊は戦地に赴くことなく復員した。

 十年後の明治三十七年には日露戦争が起こったが、琴似、山鼻の両兵村とも兵役の義務はなくなっており、将校・下士官だけが出征した。このとき九州から四郎次らを運んだ御用船相模丸が、第三回旅順口閉塞作戦で旅順港口に沈められている。

 

 札幌の各兵村でも水害はあったが、中でも篠路兵村の被害はとりわけひどいものであった。篠路はその低地を囲むように、創成川、発寒川、旧琴似川、安春川が流れていた。毎年の融雪期、あるいは石狩川の上流に大雨が降ると、発寒川の下流から逆流した石狩川の濁流が、篠路兵村に流れ込んでくる。兵村全体が浸水し、それが二週間、長いときは一カ月も水が引かない状態になる。これが毎年、五月から六月にかけて年中行事のようにやってきた。各兵屋ではそれを知っていて、毎年この水害の後に種まきが行われた。

 またこの兵村一帯は、泥炭質の地層が一、二メートルもあり、しかも低地のため地面から五センチほど下は水分を含んだ泥炭になっていた。明治二十五年六月、ここで大火が発生した。表面の泥炭が燃え出し、地を這うようにくすぶりながら燃え広がった。人々は兵屋の周りに水をまいて燃えないようにするしか手段がなく、この火災は二週間以上も続いたのである。この火災により、十戸以上の兵屋が全焼し、数戸の屯田兵が脱落していった。

 

 篠路兵村の主流作物は麻栽培であった。種まきの時期が遅いので、豆類、大麦、小麦の収穫が少ないなか、大根の栽培が定着した。明治二十四年から三十年にかけて篠路大根という銘柄が道内を風靡した。

 ところが、明治三十一年に北海道全域に暴風雨が吹き荒れ、多大な水害が発生した。この時、石狩川の水位は八メートルを超え、篠路兵村も全域が埋没するという状況で、この年の大根は全滅となった。翌年、大根が十センチほどまで生長したところで根切り虫が蔓延し、ふたたび大根の収穫はなかった。この二年にわたる被害により、この地での大根の栽培はなくなり、牧草、燕麦の栽培が主流となっていった。

 その後も明治三十五年に記録的な凶作に見舞われ、三十七年七月の石狩川・天塩川の氾濫など、篠路兵村は苦難の年月を味わうことになる。明治二十二年に一〇五六名の家族とともに入植した二二〇戸の屯田兵は、明治四十年代には七十二戸、五五五人が残るだけとなった。昭和十三年の開基五十周年記念誌によると、屯田兵七人、相続者十八人、分家十三人の計三十八人が残留者であった。この地の厳しさを物語る数字である。

 入植当初、生後五カ月であった長女榮女は、明治三十三年三月三十日に養子縁組を解消し、四郎次の籍に復籍している。養女に出した先は、篠路村字兵村五一七番地山田尋源とあり、篠路兵村配置図では、四郎次の六軒隣の兵屋である。その経緯や時期は定かではないが、入植当初の困難を想起させるものである。

 

 篠路兵村では屯田兵一戸あたり宅地一五〇坪、農耕地にすべき土地四八三〇坪が給与され、その後五〇〇〇坪が与えられた。さらに明治二十三年に五〇〇〇坪、二十九年からは五〇〇〇坪が追給され、合計二万坪近い土地が給与された。ただ、三十年間は土地の譲渡や質入、書き入れをしてはならないという制限つきの私有権であった。形式的には売買できない土地ではあったが、実質的な所有権の移動は頻繁にあったようである。明治三十七年、屯田兵条例が廃止され、土地の売買は自由になった。

 篠路兵村の場合、与えられた追給地が遠隔であったため、分家して子弟に開墾させた家族もあったが、大半は諦めざるを得ず、明治三十六年には開墾しない土地は追給地として認めないことになり、その大半は没収された。

 残留者は仲間から二束三文で土地を買い取り、それを小作人に与え小作料を取った。また、離村者は小役人や小商人となったが、その多くは道内を転々とした末に一家離散となっていった。 (つづく)

                  平成二十年十二月  小 山 次 男