Coffee Break Essay
この作品は、2008年3月発行の同人誌「随筆春秋」第29号に掲載されております。
また、日本エッセイスト・クラブ編集による『2009年版ベスト・エッセイ集』(文藝春秋刊)に選出・収録されました。2009年8月30日発行。
『増穂の小貝』 夕暮れが近づいていた。降りようかどうしようか迷ったあげく、金沢の駅に降り立った。 昭和五十六年、大学の三回生であった私は、冬休みで郷里の北海道へ帰省するため、京都から日本海回りの特急に乗り込んでいた。 駅を出て向かった先は、能登半島西岸にある富来(とぎ)という小さな漁村である。列車が金沢に差しかかろうとしていたとき、眺めていた時刻表の地図に、偶然にも富来を見つけたのだ。 富来という地は、福永武彦随筆集『遠くのこだま』の「貝合せ」で知った。高校二年の現代国語の教科書にあったものである。 作家福永武彦は、日本中が東京オリンピックで沸き立つなか、ひとり能登へと旅に出る。そこで出会ったのが、湖月館(こげつかん)という小さな宿の「むすめむすめした若いお嫁さん」と、増穂浦(ますほがうら)に打ち寄せる小貝であった。 私は教科書を読みながら、いつかこの地を訪ね、若いお嫁さんに会ってみたい、そんな淡い思いを抱いていた。その機会が、突然、現れたのである。 乗車券の有効期限は一週間。所持金は二万円に満たない。時間だけはたっぷりとあった。 駅前にあったバスの切符売り場で行き先を告げると、係員が慌てて飛び出し、動き始めていたバスを止めてくれた。能登行きの最終便であった。 湖月館なる旅館は本当にあるのだろうか。もしなかったら……思いつきの旅に不安がよぎった。空には、日本海特有の鉛色の雲がたれこめ、ほどなくバスは耳障りな音をたてながら、ワイパーを動かし始めた。窓々には精気のない疲れた顔が、いくつも映っていた。 あえぐように走っていたバスは、二時間の後、小さな灯がともる寒々とした街に出た。冷たい雨がしょぼついていた。こんなところに旅館があるのだろうか……。 バスを降り、近くの電話ボックスに駆け込んだ。電話台の下に端がめくれ茶色に変色した電話帳があった。私はかじかんだ指に息を吹きかけながら、祈るような気持ちで電話帳をめくった。 湖月館は、あった。 宿泊料金は七千円からだという。金沢へ戻る旅費、故郷まであと一日半、その道中の食事代、どう考えても五千円以上の宿泊料金は払えなかった。非常識な旅行であった。 本を読んで来たことなどを説明し、食事はいらない、蒲団部屋でもいいから泊めてもらえないかという無謀な主張に、電話口の相手が替わっていた。 「いいですよ。いらっしゃい」 その温かい言葉に、私は電話ボックスの中で何度も頭を下げながら、込み上げてくる熱いものを堪えていた。 落ち着き場所を得た安堵感から、忘れていた空腹を覚えた。見回すと、近くに閉まりかけていた小さな食堂があった。寒いから、といわれるままに茶の間に上がり、炬燵(こたつ)の中で親子丼をかけ込んで旅館へと急いだ。 こぢんまりとした宿は、年に一度のかきいれどきを迎えていた。 「あいにく今日は役場の忘年会があって」 という仲居さんに、濡れた服とズボンを脱がされ、そのまま風呂へと追い立てられた。 人心地ついて部屋に戻ると、テーブルいっぱいに並べられた食事が待っていた。入り口で尻込みする私に、 「よく来てくれました」 と声をかけてきたのは、一目で女将とわかる女性であった。 「本を読んで訪ねてくれたひとは、十四、五年ぶりでしょうか」 といいながら、立ちすくむ私を抱え込むように招き入れてくれた。 「あいにく先生のお気に入りの部屋が埋まっていて、ここで我慢して下さい」 畳の上にきちんと手を添え、改めて挨拶する女将に、私はひたすら畳に額を擦りつけていた。 女将は四十代と思われたが、「むすめむすめした若いお嫁さん」の面影を残していた。藤色の小花が散りばめられた和服が、しっとりと身を包んでいた。名もない小さな漁村に、どうしてこんなひとがいるのだろうか、私はその清楚な気品に、戸惑いを覚えていた。 忘年会の喧騒が去った後、小さな談話室で夜更けまで語らった。その部屋の書棚には、福永武彦の著作がずらりと並んでいた。作家仲間での投宿もあったと語る女将の顔が、にわかに曇った。 「先生は、二年前の夏に亡くなられたんです」 ほんのりと赤味を帯びた頬に、幾筋もの涙が光っていた。私はその白いうなじにハッとして、思わず目を逸らした。すっかり女将の華やぎの中に取り込まれていた。 女将は、風邪気味で熱があるといいながら、奥の部屋からアルバムや貝殻の標本などを次々と持ってきては見せてくれた。 この地は、毎年十一月から翌三月にかけて貝寄せの風≠ェ吹き、歌仙貝が打ち寄せる。さくら、なでしこ、いたや、わすれ、にしきといった叙情的な名と、桃、橙、紫、黄の目の覚めるような色彩にすっかり魅了されながら、時間の経つのを忘れていた。 翌朝、傘を借りて近くの浜辺を歩いてみた。そこはよく見ると砂浜ではなく、小貝が敷き詰められた海岸であった。暗鬱な空とは対照的な色彩が足元に広がる。小指の爪ほどの貝は大きい方で、ほとんどがその半分にも満たない。それでいて完全な貝の形をしていた。 出発の時刻はまたたく間にやってきた。冬の貝殻は色艶がいいという。寒風に吹かれながら拾った貝殻のお土産と、バスの中で食べなさい、とひと包みの握り飯を手渡された。私は下げた頭を上ることができなかった。 浜辺から戻る途中、立ち寄った小さな本屋で、一冊だけあった作家の文庫を求めていた。別れ際、厚かましくも何か記念に書いて欲しいと頼むと、女将は流麗な字で、福永武彦からもらったという歌を、嬉しそうにしたためてくれた。
夜もすがら春のしるべの風吹けど 増穂の小貝くだけずにあれ
バス停まで送るという申し出を振り切るように断り、私は宿を後にした。握り飯の温もりを手に感じながら、ふり返るといつまでも手を振る女将の姿があった。 この歌が、恋歌だと気づいたのは、ずっと後になってからのことである。
平成十三年六月 小 山 次 男 付記 平成二十年七月 加筆 |