Coffee Break Essay


この作品は、室蘭民報(2017513日夕刊)「四季風彩」欄に掲載されました。


 狐につままれる

 

 私は一九六〇年にえりも岬の隣、様似町(さまにちょう)で生まれている。幼いころから「狐に化かされる」とか、「狐に騙(だま)される」という話をよく聞いてきた。キツネに騙されて山に向かってどんどん入って行き、それこそ帰らぬ人になるというのだ。大人たちが大真面目にそんな話をし、キツネを恐れていた。

 大学一年の夏、えりもの漁師の家に泊まり込んで昆布干しのアルバイトをしたことがある。ある朝、漁師のカアちゃんに高校生の娘を起こしてきてくれと頼まれた。浜と自宅との間には、人の背丈を超えるドングイが鬱蒼(うっそう)と生い茂っており、自宅は山側にあった。

 勢いよく走りだす私を遠くで見ていたバアさんが、私がキツネに騙されて山に向かって走って行ったと勘違いした。私の姿が消えたと同時に、別の道から娘が姿を現したからだ。バアさんが血相を変えて私を呼び戻しに来た。

 一九七八年に公開された「キタキツネ物語」は、空前の大ヒット映画となった。この映画によって、キツネのイメージが払拭(ふっしょく)されたか、以降、キツネに騙されるという話をほとんど聞かなくなった。

 「狐につままれる」という言葉がある。意外なことが起こって何が何だかわからず、ポカンとすることである。これも「狐に騙される」に隣接する言葉だろう。

 三十代のころの話である。東京・杉並の明大前から、練馬の社宅に引っ越したことがあった。引っ越しは土曜日で、月曜日には会社で大きな会議があった。会議の後には会食があり、それが二次会に及んだ。

 駅から自宅までは歩いて十二、三分の距離である。酔いと引越しの疲れが混然一体となり、通い慣れた住宅街の道を、重い足取りでトボトボと歩いていた。ふと顔を上げると、遠くに見える自宅の窓に明かりが灯っていない。いつもならカーテン越しに明かりが漏れているのである。起き出した娘を妻が寝かせつけているのだろうか、と怪訝(けげん)に思いながらアパートの前に立って、愕然(がくぜん)とした。その場にへたり込んでしまった。暗い窓にカーテンがなかったのだ。つまり私は、二日前に引っ越した杉並のアパートの前に立っていた。

 会社から練馬の社宅に帰るには、それまでと同じ都営新宿線に乗るのだが、途中で丸ノ内線に乗り換えなければならない。それがいつもの調子で、乗り換えずにそのまま行ってしまったのだ。というか、電車に乗ったとたんに寝てしまい、目が覚めたら偶然にも明大前駅だった。慌てて下車し、ホッと安堵していたのだ。それどころか「どうだ、オレもたいしたもんだろう」と、ちゃんと目覚めたことに、少し得意な気分になっていた。

 携帯電話のない時代である。そこから一時間かけ、さらに重い足取りで帰ったのだった。「ずいぶん遅かったわね」という妻に、「キツネに騙された」と言ったら、キツネにつままれたような顔になっていた。神奈川生まれの妻には、意味が理解できなかったようだ。


               平成二十九年四月三日  小 山 次 男