Coffee Break Essay
電話を持ち歩く日が来るとは、誰が想像しただろうか。私にとっては、未来都市の空想画の中で、車が空を飛んでいるのに似た出来事だった。この分じゃ、人間が瞬間移動するような時代が来ることも、まんざらありえないことではない。大袈裟なようだが、本気でそう思った。 私は一九八三年からの二十八年間を東京で過ごしている。渋谷のハチ公前広場にズラリと並んでいた公衆電話の前には、常に電話待ちの行列ができていた。一九八七年を過ぎたあたりのことで、昭和のドン詰まりの光景である。長電話をする人の前の電話ボックスに並んでしまったら、それは「ハズレ」であり「不運」なことだった。みな、一様にイライラしていた。 電電公社がNTTに代わったあたりから、固定電話機が目覚ましく進化を始めた。それまでの黒一辺倒の電話がカラフルになり、留守番機能が付いた。それは画期的なことだった。待ち合わせ時間に遅れるとか、道に迷っているといった自分の状況をメッセージに入れておく。すると相手は、自分の電話に入っているメッセージを遠隔操作で確認できるのだ。また、営業マンが携帯するポケベル(ポケットベル)が背広の内ポケットの中で鳴り、会社に連絡を入れることを促す。これらが電話ボックス前の行列をいっそう長くした。 当時も今もハチ公前広場は、待ち合わせの人でごった返している。今はスマホがあるので、時間に遅れたり、急用ができた場合でも即座に相手と連絡をとることができる。場所がわからなければ、ナビの音声ガイドに従ってスマホの画面を見ながら歩けばよい。むかしは延々と待ち続けるか、会うのを諦めるしかなかった。だからこそ生まれるドラマもあり、思わぬ出会いが待っていたりもした。待ち合わせには、それなりのスリルが伴っていた。あの時代を肯定するわけではないが、そういう時代もあったのだ。 私は一九六〇年に、北海道の小さな漁村、様似(さまに)に生まれている。昭和三十五年なので、昭和のど真ん中である。 初めて自宅に電話がついたのが小学校五年生、十歳のときだった。つまり、それまで自ら電話をかけたことがなかった。だから、かけ方を知らなかった。テレビのない生活は、すでに考えられない時代になっていたが、電話のない生活は常態だった。遠隔地にいる両親の兄弟姉妹、つまりオジやオバたちとの連絡は、もっぱら手紙やハガキだった。火急の用は、電報である。「チチキトクスグカエレ」というやつだ。 小学校へ上がるころには、地域の中に電話が登場する。町内会の当番に当たった家だったのだろうが、個人宅の玄関に公衆電話が置かれた。急用がある場合、そこに電話が入った。その家の人は、電話のたびに走って呼びに来た。電話は、よほどのことがない限り使わないものだった。近所の漁師の集落の電柱に取り付けられたスピーカーからは、「○○さん、お電話ですよー」という声が海風に乗ってよく聞こえてきた。 小学五年生になって初めて自宅についた電話は、ダイヤルのない黒電話だった。電話の側面についているハンドルをグルグルと勢いよく四、五回まわして受話器を耳に当てると、「はい」と交換手が電話に出る。ハンドルを回すことにより電気が発生し、それが交換手のもとに届くのだ。交換手に相手の電話番号を告げると、電話をつないでくれる。交換手の「どうぞ」という合図で話し始めるのだ。 自宅の隣に結婚したばかりの若奥さんがいて、交換手をしていた。電話をすると奥さんの声が「はい」と出てくる。私が番号を告げると、「あら、ケンちゃん?」といつも言ってくれた。それが妙に嬉しかった。 当時の我が家の電話番号は329番だった。漁業組合に勤めていた父が1番で、郷土資料館でアルバイトをしていた母が2番だった。中学に上がるころになると、電話は自動に切り替わった。つまり、電話機がダイヤル式の電話となり、交換手を介さずに直接相手に電話をかけることができるようになった。今と同じ形式である。 中学生になったある日、親類の家に遊びに行ったところ、目の前の山から火が出ているのを見つけたことがある。山火事だった。消防に電話をしようとしたが、電話番号がわからない。電話は自動になっていたが、消防署が一一九番ではなく、ごく普通の電話番号だった。そんな時代もあったのだ。 今、スマホを持ち歩くようになって、電話をかける頻度が極端に減った。個人的な通話は、ほぼ皆無に等しい。ほとんどをLINEやメッセンジャー(フェイスブック)、またはメールで済ませてしまう。音声による会話から文字でのやりとりとなった。絵文字やスタンプ(イラスト)が文字を支援する。時には、写真や動画も動員する。電話によるコールが相手の状況を妨げない、それがいいのだ。 通信手段ひとつをとっても、五十年の間に目覚ましい進化を遂げた。とりわけこの十年の変化は、目を瞠(みは)るものがある。これから私たちはどこへ向かうのか。そして、それをどこまで見届けることができるだろう。問題は、こちら側の耐用年数にかかっている。 平成二十九年六月 小 山 次 男 |